※この文章は、ボクの思考的迷走をそのまま文章に書き起こしたものです。
※エンターテイメント性・思いやり・読後の爽快感等はまったく考慮していません。
※気分や体調の優れない方は、読まないことを強く推奨します。


 足りない。何かが、足りない。
 これだけ多くの追加要素があったというのに、ボクの目に一番初めに見えたのは、そこには「無い」ということだった。
 恋人に待ちぼうけを食らわされたようなものだ。待ち合わせ場所にどれだけたくさんの人がいても、まず真っ先に見えるのは「そこに相手がいないこと」なんだ。
 それだけ深く、深く、Moon Whistleを愛してしまったボクのことだ。どんなリメイクになったところで、100%満足することは無いのではないか、という予感はあった。覚悟もしていたはずだった。
 しかし、こうして予想以上に出来の良いリメイクを目の当たりにすると、どうしても、あり得たかもしれない可能性という「無いもの」を求めて、ボクの視線はさまよってしまう。

 わかってるよ。「公開されたこと自体を喜ぶべきだ」って言われるのは、わかってる。
 でもね。ボクにとって、ムンホイは人生なんだ。
 出会っていなければ、ボクの人生は全く違ったものになっていたはずだ。激辛にレビューを投稿することだって無かっただろう。
 ボクが今、生きていることの悦びを感じられる瞬間の大半は、ムンホイと出会ったことに由来してるとさえ言っていい。
 だからこそ、Moon Whistleのリメイクを謳う本作をプレイすると、感動や喜びだけじゃない、色々な思いが交錯してしまう
 ……この違和感ともつかない何かを、少し整理しておきたいんだ。


 Moon WhistleとXPの違いを1つ、端的に挙げるとしたら、
 それは6月20日、ハルトとXレンジャーの対決シーンで見えてくる。
 Moon Whistleのもともとのセリフがこれ。

 Xレンジャー「
   こぞう・・・・貴様・・・・ダラダラとごたくをならべているが、
    貴様に、『社会の常識』を身をもって教えてやる。
    それはな・・・・この社会では、実力がモノをいうという
   ことだ!!! 口だけで渡って行けると思うな!!!
     貴様に俺の『実力』・・・・見せてくれるわ!
       Xスターバスターーーーーー!!!!!

 氷石さんの「闘え正義のXレンジャー」がここぞとばかりに鳴り響くせいで、うっかり誤魔化されそうになるけど、
 ハルトの指摘を待つまでもなく、これは「子どものオモチャを本気でぶっ壊しにかかる、大人げない大学生」の図だ。
 正義の味方を自任するXレンジャーが自ら「力こそすべて」という価値観を是認してしまうという、問題の場面であり、
 図らずもXレンジャー自身によって、彼が実はハルトとまったく同レベルであることを暗示するシーンになっているわけだ。
 ここからハルトによる暴力の連鎖がさらに続くことを考えると、罪の深い行動である。

 案の定このセリフは、XPではよりマイルドなものに修正され、さらにみんなで仲良くするよう諭す内容のイベントが追加されている。
 だが、Moon Whistle時点でのXレンジャー、ぜのん19歳という人物は、ハルトとも仲良くするように諭せるような大人ではまるでない。
 精神的に弱く、感情の起伏が激しく、自己中心的で、社会性に乏しく、友人もなく、引きこもりで、
 いい年して積み木遊びがやめられず、いつまでも幼稚園時代の先生を恋愛対象として夢見ている、そんな男だ。
 そりゃあ掲示板で叩かれるのも無理はない。
 「Xレンジャー」としての彼は、子どもたちが憧れる正義のヒーローであり、「私のように、君も正義の味方になれる」と力説するのだが、
 「ぜのん19歳」としては、彼自身が「俺みたいな大人には、絶対になるな」と繰り返すような人物であり、世間的にもそれは間違ってない。

 ムンホイの主人公は、そんなダメ人間だ。
 ムンホイのメッセージが好きになるかどうかは、そのダメ人間にどれだけ魅力を感じられるか、それにかかっている。
 ぜのん19歳的な人格が認められない人にムンホイを勧めてはいけないよ。その人にとってムンホイのメッセージは、理解できないもの、ともすれば不愉快なものに見えるだろうから。
 でも、この文章を読んでいる人の大部分は、きっとそんなぜのん19歳がダメ人間だからこそ、魅力を感じた人なんだろうと思う。
 どんな人にも、ぜのん19歳的な部分はきっとあって、だからこそ彼の苦悩で身につまされる思いをするんじゃないだろうか。
 自分の中にあるぜのん19歳的な部分を認められるかどうか、そこが大きい。


 最近、ある人がこんな文章を書いていたよ。

  子供の舌は敏感である。だから、たいていの子はピーマンの苦味に耐えられない。
  しかし、大人になれば、ほとんどの人はピーマンの苦さから風味を感じられるようになる。成長に応じて、味覚が変化するからだ。
  それが、人間の身体の仕組みである。

  ある人は、子供の頃のピーマンの苦味を覚えている。だから、子供にピーマンを強制したりはしない。
  だが、ある人は、そんな記憶を忘れている。大人の自分が食べられるんだから、子供が残すのは甘えだと思い込む。

  そういう大人の押し付けは理不尽だ、と思う。
  でも、まわりを見ると「ピーマンを食べられる俺は子供より偉い!」という大人は結構いる。

  結局、大人に反論するだけの言語能力のない子供は、だまってピーマンを飲み込むしかないのだ。
  ある子は、泣きじゃくりながらピーマンを吐きだすだろう。
  だが、それでも「大人が間違っている」と思うことは許されない。たいていの子は「自分が間違ってる」と思う。

  なぜなら、大人はかつて子供だったが、子供はかつて大人ではないからだ。
  だから、残念なことに、子供は大人が自分たちの気持ちをわかってくれると期待してしまう。
  実際は、ほとんどの大人が、ピーマンが苦いという感覚を忘れてしまっているのだけれど。

  もちろん、ここでいうピーマンというのは「たとえ」の一つにすぎない。
  大人には耐えられても、子供には耐えられないものの一例である。

  僕は、『Moon Whistle』(ムーンホイッスル)というRPGが、ピーマンが苦手で泣いたという経験を思い出させるだけではなく、ピーマンの苦さやその拒否反応といった感覚そのものを呼び覚ます力があることに、最大の魅力があると考えている。

(フリーRPG『Moon Whistle XP』感想 - esu-kei_text)

 よく書けてる文章だと思ったので、たぶん一番力をこめて書いた部分をそのまま引用してしまった。
 このエスケーさんという方は、ボクが初めて出会ったムンホイ理解者であり、ボクをフリゲレビューに引き込んだ呼び水、ボクにとっては師匠とも呼べる人物だ。
 機会があったらぜひ、昔この人が書いたMoon Whistleレビューを読んでほしい。ボクはあれ以上のムンホイレビューを未だに読んだことがない。まあ、ビートルズのファンからすれば物申したくなる文章かも知れないけどね。

 で、この文章だけど、かつて子どもだった大人がムンホイをプレイした時の感想を的確に表現していて、それは共感できる。
 でもね、子どもがプレイした時、この喩えで言う「泣きじゃくりながらピーマンを吐きだす」子がプレイした時の感想は、そんな生やさしいものじゃない。
 ボクが証人になってもいい。
 特に終盤は、まるで自分のことを言われているようで、心臓をえぐり出されるような気分になったんだ。
 今振り返ると、その当時のボクとぜのん19歳は、そこまで共通点は多くない。ボクは彼とは違う意味で問題児だったからね。
 だけれど、ぜのん19歳の苦悩はボクには痛いほど伝わってきた。自分の心を破壊しかねないほどのバイブレーションだった。
 そういう記憶って、自分が大人になってもずっと残る。傷は癒えても、傷があったという記憶が残り続ける。トラウマってヤツだね。
 ボクにとってムンホイは、そういうポジティブトラウマとして、今でもボクの生き方に影響を与えている。


 Moon Whistleはなんでここまでの殺傷力を持っているのか。
 ゲームバランスや奥深い隠し要素、そして絶妙なシナリオ構成があるから、というのはもう言い古された分析だ。
 ではなぜ、この奥深い隠し要素、絶妙なシナリオ構成は生み出されたんだろうか。

 ボクには1つ、心当たりがある。
 ムンホイの世界が、実はぜのん19歳の夢である、という設定だ。
 ぜのん19歳の精神そのものが、Moon Whistleの縦糸になっているから、破綻なくストレートにメッセージを伝えることができたのではないか。

 ぜのん19歳は、社会性に乏しく、自己中心的な人物だ。ゆえに視野が狭い。
 しかしそれは当然のことだ。なんたって彼は文字通り、生きるか死ぬかの瀬戸際の精神状態なんだ。
 視野が狭いために、すべての事象を自分に結びつけて考えている彼の世界観が、ムンホイ世界にはそっくりそのまま反映されている。

 本筋とは直接関わっていないように見える、秋のロケモン騒動のくだりを例に見てみよう。
 ボクらの世界で起きたポケモン騒動は、手抜き仕事をせざるを得ず、し続けてきたアニメ業界の問題、
 それを野放図にしてきたくせに、いざ事故が起こればゲームやアニメを悪役に仕立て上げ、特定の社会層に取り入ろうとするマスコミの問題、
 そして安直に直接関係のないゲームを槍玉にあげるPTAの問題等々、大人の世界の問題で子どもがおおいに迷惑をした、という事件だった。
 大人の世界の問題で子どもがおおいに迷惑をした、という構図は、ロケモン騒動でも変わらない。
 しかしロケモン騒動の場合、諸悪の根源はノアであり、そこから次々と「悪」の直列つなぎになっていく、という単純なものになっている。
 その「悪」の直列つなぎに学習塾が加わってくるのも面白い。
 小学生向け進学塾は、子どもの頃勉強ばかりさせられたと恨むぜのん19歳にとってはまさに「悪」なんだ。
 学習塾に通う子どもは疲れ切っていて、講師も非人間的なモンスターだ。ぜのん自身小学生の家庭教師をしていたのに、あんまりな扱いだ。もしかしたら、かつての職場の私怨も入ってるかもね。

 そこまで単純化しているからこそわかりやすく、気がつかないうちにぜのん19歳の精神構造をプレイヤー自身がなぞってしまう、という巧みな罠なのだ。
 プレイヤーがゲームの世界にすっかりのめり込んでしまってから、その世界がすべてぜのん19歳の苦悩に由来していることが明かされる、という仕掛け。
 一度彼の精神世界を追体験してしまっているボクらは、彼の苦悩が他人事には聞こえなくなっている、という塩梅だ。

 どんな人間でも一生に一冊だけ傑作が書ける、それは自伝だ、なんて言うけど、
 この作品はそれを、ぜのん19歳という人物を通して、擬似的にやってしまったんである。
 ぜのん19歳という、ある種普遍化した人間像を使っているから、その共感度は一個人の自伝の比ではない。
 もちろん、この作話方法がどの作品にも通用するわけがない。ある意味ヒキョーなやり方だろうね。
 ムンホイの構成は、ぜのん19歳の視野からものごとを見ることを徹底しているからこそ、不動のものになっているのだ。

 だからリメイクするにあたっても、ぜのん19歳の視野で構成することが必要になる。
 ぜのん19歳の視野の外から物事を見てしまったら、それはMoon Whistleではない別の作品になってしまうからね。
 もちろん作者自身も変わっていくものだから、今のぜのん19歳は当時とはまた変わっていくだろうし、
 何よりプレイヤー全員の中にぜのん19歳が生まれてしまったから、旧作のプレイヤー全員を満足させることはできないだろう。
 でもボクは、ぜのん19歳の余裕のなさにこそ、Moon Whistleの魅力の本質があると考えている。
 生きるか死ぬかの瀬戸際で、もしかしたら大人になれないまま死んでしまうかも知れないという切迫さこそ、彼がムンホイの世界を創った動機だし、
 そしてボクが愛した、この作品の切実さにつながっているのだから。


 みんな仲良くするよう諭すXレンジャーの図とか、みんなを説教するつくもの図に違和感を覚えたのは、そこに余裕があるからなんだろうね。
 そりゃあいじめは悪いことだよ。でも、そんなことはMoon Whistleをプレイすれば十分伝わるじゃないか。
 もしかしたらサスケさんは、今まさにいじめられている子どもに、すぐにでも何か伝えなきゃいけないと思ったのかもしれない。
 でも、ぜのん19歳の世界の中に、いじめの解決方法があるわけがないんだ。彼自身が「知っていたら今すぐ教えろ!」と叫びたいくらいなんだよ。
 彼は最終試練でやっと、今までいじめられていた経験と向き合い、克服することができた。でもまた、いついじめに遭うかわからない。
 ぜのん20歳は、それでも生きていくだろうけども、いじめっ子を諭すような境地に達するのはもっとずっと先だ。

 いじめの解決方法を提示するのは、Moon Whistleの役目じゃない。ムンホイは道徳の教科書にはなり得ない。
 ただその辛さだとか、痛みだとかを伝えて、みんなに考えてもらうのが、ムンホイらしさだったんじゃないだろうか。


 だから、ハルトの人間像を掘り下げるっていうアイディアは、とても良かったと思う。
 彼はMoon Whistleの敵役、つまり影の主役だ。ぜのん19歳と同様、世界創造の力を持っていたあたり、端的にそれを物語ってるよね。
 ハルトはムンホイの世界では子どもたちの頂点に君臨していたが、ぜのん5歳達に倒されてしまい、今度はむしろいじめられる立場に追いやられた。そりゃあぜのん達のことを恨むさ。
 エイドスが助けに来てくれたけど、結局ぜのんにやられて逃げ出してしまうし、みんなと仲良くしようと参加したロケモン大会は、ノアのせいでぶち壊しになってしまった。
 ぜのん19歳がムンホイの世界を創っているという視点で見ると、彼はいじめっ子であったばかりに、いじめっ子を心の底から憎んでいるぜのん19歳によって、ぜのん19歳がかつて味わった苦しみを体験させられている、という構図になる。
 結果オルタナティブ・ハルトは眠ることに恐怖するようになり、カウンセリングまで受けるハメになってしまった。
 ぜのん19歳、容赦がない。それも自業自得と言うのがMoon Whistleのスタンスだけど、こうしてハルト視線でこの物語を見るとどうだろう。いくら何でも、ちょっとやり過ぎだと思わないかな。
 しかし、ぜのん19歳は結局、ハルトを赦すことができなかったように思う。
 最終試練になってもハルトの幻影、ぜのん19歳の「いじめっ子」のイメージはぜのんを苦しめ続ける。
 ぜのん自身では手も足も出ず、とうとうマックスの手によって「消滅」させることになるのだ。

 いじめっ子だった子どもが、ある日一転していじめられることは、現実によく起きることでもある。
 もしMoon Whistleをプレイしていて、いじめっ子だった子どもはいじめ返しても構わない、というメッセージを受け取ってしまう子どもがもしいたなら、それは悲しいことだ。
 リメイクを作るからには何とかしないといけない、そうサスケさんが考えたとしても不思議じゃない。

 多分そうしてでき上がったのがXPのハルトなんだけど、みんなはどう感じただろうか。
 ボクは、彼のことは嫌いじゃない。
 マグマとノアの板挟みで揺れる彼の境遇には共感できたし、彼の孤独さややるせなさは十分伝わるところがあった。

 でも、なぜなんだろうね。
 やっぱりボクは、Moon Whistleでの圧倒的だった彼が、どうしても懐かしいんだ。
 彼の描写が増えれば増えるほど、彼の影が薄くなってしまったように感じるのは、どうしてなんだろうね。

 彼がMoon Whistleでどれだけのものを背負わされていたのか、XPになって痛感した、というか。
 XPでは意図的に、いわゆる「悪役」を排除しようとした節がある。
 ノアとか代表例だよね。マグマの人間くささも強烈で、あれじゃ本気で憎む気になれない。
 悪役に悪役としての魅力がなければ、正義の味方の戦いはただのドタバタ喜劇になってしまう。
 傍目に滑稽に見えることを、生きるか死ぬかの瀬戸際でやっているところに、Xレンジャーの魅力があるはずなんだ。

 ハルトはやはり、ノアの口車に乗せられるのではなく、主体的にぜのん達と対峙する悪役の方が、この物語には似合う。
 マグマとコントなんかするより、悪役になってしまった彼の孤立感や悲壮感まで描ききった方が、彼の人物像は掘り下げられたんじゃないかなあ。
 最終試練までぜのん19歳を苦しめ、乗り越えさせて、最後の最後でに正義の味方と悪役じゃない、ぜのんとハルトの会話なんかがあったら……
 いや、これはさすがに妄想だね。


 今まで言ってる「悪役」っていうのは、「正義と悪」の軸で見た悪であって、「善と悪」の軸で見た悪じゃない。
 ムンホイシリーズ全体で見た「善と悪」は、それだけで1つのトピックになる話題だ。

 Moon Whistleでは、Xレンジャーことぜのん19歳が唯一絶対の正義だ。でも彼は、必ずしも善を志向しているわけではない。
 筋が通らなくても、場合によっては力ずくでも、自分の正義を通したい、その執念がタイムマシンを作ってしまった。
 Moon Whistleの何がおかしいって、正義の側に対する悪の側の指摘がいちいちもっともで、筋が通っているというところなんだ。
 さっきも言ったとおり、「いじめた上に、泣かせて、さらに仲間はずれにした上に、おもちゃを壊したりした」のは、ハルトの視点から見るとこれっぽっちも間違っていない。
 「因果律を乱している」というエイドスの指摘は、さすがにぜのん19歳も無視はできなかった。ポリグラは「マインドコントロール」という指摘も、ぜのん達自身が強引な実力行使であることを認めている。
 よく考えてみると、ムンホイの世界はぜのん19歳の夢の中なんだから、悪役の指摘って、ぜのん19歳の自己批判なんだよね。
 「いい年こいて特撮のコスプレしてる恥ずかしいオッサン」とか、すごい冷ややかに自己分析しちゃってることに気づくと、2回目以降のプレイが楽しめたりする。
 9月1日のイベントなんて、オルタナティブぜのんが言われてきたことのオンパレードみたいな所もあるしね。

 だから、Moon Whistleは善悪併せ呑むようなところがあって、善悪が未分化だ。
 幼稚園児的な世界観と言ってもいいかな。言ってしまえば、ぜのん19歳は幼稚な男だからさ。
 ムンホイは社会的な善悪の物語じゃなく、ぜのん19歳の個人的な物語だからね。
 それに対してAnother Moon Whistleは……
 そう、アナムンはまさに「善と悪」がテーマだよね。


 Moon Whistleは「Xの物語」、Another Moon Whistleは「Aの物語」だ。
 主人公の頭文字を取っただけだけど、結構うまくできた話ではある。
 Xというのは未知数だ。もしかしたらボクがXかもしれないし、キミがXかもしれない。
 人間誰しもが持っているX的な部分に共感する物語がムンホイだ。
 一方、Aというのは定数だ。「少年A」という言葉自体、「あなたでも私でもない誰か」という響きを含んでいる。
 もしボクやキミにA的な部分があったとしても、彼に共感することは許されない。彼は許されない悪なのだから。
 AはA、私ではない誰かとして徹底的に対峙する物語がアナムンだ。
 ブレヒト的に言えば、ムンホイは同化で、アナムンは異化だ。
 少なくとも最終盤に至るまで、アナムンは誰かに感情移入することを許さない。

 特に第5章からの展開は、本当に吐き気がするようないやらしさでプレイヤーに迫ってくる。
 「なぜ人を殺してはいけないんだ」というAの質問に対し、中学生3人はそれぞれの結論を導き出す。
 でもその後、彼らは悪行に走ってしまうんだよね。しかもAの質問に対する答えと、ちょうど対になるような悪行にだ。
 3人の中の誰かの意見に賛同してしまったら、まるで彼らの悪行の背中を押すような格好になってしまう。とても後味が悪い。
 かと言って……みんなは、裏選択肢を見たことがあるかい?
 ボクはとうとう、あの選択肢は選べなかった。でも理解はできる。
 Aが日の丸鉢巻きを締めているのは、日本兵のイメージが念頭にある。
 ボクの祖父・曾祖父の、戦争で闘った世代を、はたして「人殺し」と呼ぶことができるのか、という問いも、あの中には含まれているんだ。

 アナムンはそうして、善悪を一度徹底的に相対化し、みんなに考えさせようとした。
 その結果、プレイヤーの大半はくたびれ果ててしまった。何より、サスケさん自身がくたびれ果ててしまった。
 ダークムーンという悪の象徴をラスボスにすることで、なんとかRPGとしての体面は保てたものの、おそらくサスケさんが当初思い描いたものとは全然違うゲームになってしまった。
 ボクは、アナムンや、それを作ったことについての評価は今はしないよ。ただ、嫌いじゃない、とだけは言っておく。


 その経緯をふまえて、XPの「善悪」の描写があることは、ムンホイシリーズのファンなら当然わかっている。
 ハルトやマグマが悪いことを唆すと、みんなまるで魔法がかかったみたいに言うことを聞く。しかもご丁寧にエフェクト付きだ。
 それをぜのん達が説得すると、これまた魔法が解けたみたいに元に戻る。これもご丁寧にエフェクト付き。
 ……ボクは、どんな事情があっても、このやり方を評価することはできない。これは描写じゃない、説明だ。
 さらに言えば、こういうわかりやすい善悪の判断は、やはりムンホイらしく思えない。
 まあ、アガペーリングの追加イベントみたいな、寓話的な話だったらまだ許容できる。あれは本当に魔法なのかもしれないし。
 でもムンホイは、寓話と言うには、もっとずっと生臭いものだったはずだ。

 そもそもぜのん19歳の動機自体が、社会的な善悪とは一線を画したところにあるからね。彼は社会と、文字通り闘おうとしているんだから。
 正義のヒーローになって子どもの頃の自分を救いに行くなんて、他人に誉められるような考えじゃないことも、彼は自覚してしまっている。
 それでも、どうしてもやり遂げなきゃならなかった、その強い情念にこそ魅力があるんじゃないか。
 やはりムンホイは、道徳の教科書にはなり得ないんだよ。


 寓話的といえば、ヒャッキンまわりのイベントもか。
 環境問題というテーマ自体は、Moon Whistleでは前面に出てこなかったけれど、かなりムンホイ的なテーマではある。
 物心論的もったいない精神と、世紀末思想、2つのムンホイ的ファクターを含んでるからね。

 物心論的もったいない精神については、6月8日のかえるアイアン戦で前面に出てきたテーマで、これは今でも通用すると思ってる。
 XPではエイドスの仕業ってことになってたけど、メッセージ自体は変わってないよね。
 だけど、世紀末思想の心理って、たぶん今の若い人、1999年以降に物心ついた人にはわからないんだろうな。
 Moon Whistleはまさに1999年に公開されたんだけど、その頃の青少年は……なんと喩えればいいのかな。
 子どもがサンタクロースを信じるように、世界の破滅を信じてた……うーん、ちょっと違う気はするけど、ボクの表現の限界だな。
 子どもの中には、サンタクロースの存在を信じて疑わない子もいれば、サンタクロースなんて端から信じていない子もいるだろう。
 でもまあ、大半の子どもは、サンタクロースなんていないってことは、頭ではわかっている。でも全否定もできず、体のどこかで信じていて、信じたいと思ってたりする。
 こりゃあ一種のダブルシンクだよ。90年代の青少年にとって、世界が滅ぶということはそれくらい身近な思考だった、なんてきっと理解できないよね。
 でもそこが理解できないと、東大に入学できるほど頭のいい人達が、なぜ1人の男の妄想に付き合って、地下鉄に毒ガスを撒いたのか、心理的背景が見えなくなってしまう。

 XPは、できるだけ現代でも通用する要素を使って再話しよう、という意図が見える。
 でもこの世紀末思想は、生きるか死ぬかのぜのん19歳にとってはものすごく切実な問題で、特にムンホイ終盤の中心テーマだから、そう簡単には外せない。
 結局、舞台装置は変えたけど、やっぱりハルマゲドンはやって来た。でも、終末論的色彩はかなり薄くなっている。

 もしMoon Whistleの時点で、環境問題を前面に取り上げたエピソードがあったら、ものすごいことになってたかもね。色々とヤバいことが起きてたに違いないよ。
 でも、終末論的色彩が薄くなったXPでは、かえるアイアンの話の繰り返しのようになってしまったのは、残念なところだった。
 秋って、ムンホイにとっては結構大事な時期だと思うんだよね。夏にかけての盛り上がりと、新年からの畳みかけをつなぐ役割を果たしてるから。
 XPでは、その周りがちょっとゴチャゴチャしすぎたように感じてる。


 なんだか、変更に対してケチばかりつける感じになっちゃってるね。
 まあ、多分、ボクは変更に対してあまり良く思ってないのはその通りなんだろうな。
 でもね、発想としては悪くなかったとか、ムンホイ的ではあったとか、部分的な評価はしてるでしょ?
 ただ、その変更した部分を、変更していない部分となじませる作業が足りてなかったと感じるんだよ。
 それだけの時間的精神的余裕がサスケさんになかったことも、理解はしているけどね。

 Xレンジャーブラックが登場したところが、ボクには象徴的に思えてさ。
 ボクが一番困惑したシーンが、実はこれだったりする。

 ムンホイとアナムンの違いは、Xレンジャーの人数にも表れてるって意見は、どこで見たんだっけか。
 アナムンのXレンジャーは7~8人もいて、みんな足並みが揃わなくてケンカばかりしているから、ムンホイの絶対唯一の正義の象徴が相対化されてるって感じだったか。記憶を頼りに書いてるから、間違ってたらごめんなさい。
 そう、Moon WhistleにはXレンジャーは1人しかいない。レンジャーなのに1人。他の色なんて存在しないんだ。
 サスケさんに特撮の知識がほとんど無かったからだ、とも聞いてるけど、集団で闘うはずのレンジャーなのに、たった1人しかいないというのが、あの世界のぜのん19歳の立ち位置を象徴してると思う。
 あの世界のXレンジャーは、たった1人の特別な存在だ。
 じゃあ、XPで登場したブラックって、いったい何だ?
 正体はは最初からバレバレだったけど、次に思いついた疑問は、とうとうボクにはわからなかった。
 ぜのん以上にいい年こいたオッサンが、なぜよりによってあの恥ずかしい格好をしてるんだろう。


 一番最初に言ったとおり、この作品自体は本当によくできてると思う。
 作者が言う「2週目」って言葉によく現れてるけど、かつてMoon Whistleをクリアした人が、もう一度思い出の作品を遊ぶつもりなら最適だ。
 その意味で、間違いなくMoon Whistle XPもムンホイだよ。それは認めてる。
 ただ、ファーストプレイの人に、Moon WhistleとMoon Whistle XP、どちらを先にプレイすべきか聞かれたら、ボクは迷わずMoon Whistleを勧めるけど、どうだろう。

 ボクのように、まだMoon Whistleを思い出として片付けられない人に、XPを勧めるかどうか。
 ボクは迷ってる。でも結局、勧めるんだろうな。
 それはきっと、自分の中のMoon Whistleを整理するきっかけにはなるだろうから。

 と言いつつ、この文章を書いたことで、ボクは益々もやもやしてしまってるんだけど。
 実はボクは、これを書いている時点でまだ、レビューの本文を一行も書いていない。
 そろそろ書かないとまた〆切に間に合わないから、ここで切り上げることにするよ。

 もしここまで付き合ってくれた人がいたら……お疲れ様でした。
 言ったとおり、あまり愉快なものじゃなかったでしょう?
 でも、読んでくれてありがとう。ぺこり。